わたしがクリスチャンになるまで その②
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家に来てくれたのは私が高校時代からの親友。でもお互い別の進路を進み、年に一回会うか会わないかくらいの付き合いになっていました。私はもともと、友人に自分から「会おう」と誘うタイプではなく(^^;)いつも友人から誘ってくれて、友情を保ち続けていてくれました。そんな友人があるときから「クリスチャンになった」ということは、なんとなく聞いていたと思いますが、可もなく不可もなく(友人が決めたことなので)以前と同じ関係を続けていました。
私がとてもつらく自宅で落ち込んでいた時期に、親友は聖書と、直筆の手紙を持って会いに来てくれました。そのときどのくらい時間を持ったのか、今では詳しくは思い出せません(10年以上前のことなので)が、手紙に書いてあった言葉は、今も覚えています。
「何でも話して大丈夫だから。」
「神さまが待ってるから。」
正直、当時の私には意味がすべて分かったわけではありませんでした。
神さまが待ってる?わたしを?
一緒にプレゼントされた聖書も、パラパラ見てみました。
???
なになに?どこから読めばいいの?辞書みたいに分厚いんですけど・・・
でも、持ってきてくれたということは、ここに私が立ち直るメッセージが書かれているんだろうか・・・
とにかく、分かったことは「聖書はわたしひとりでは読めない」
ということでした(笑)
注:ノンクリスチャンでもお一人で最初から読破してしまった!という方もいらっしゃるようなので、これはあくまで私のケースとご理解下さい<(_ _)>
でも、私を励ましに来てくれた友人の気持ちがものすごく嬉しくて、
(そして聖書を一人では理解できないのもあり)
(友人が誘ってくれてるし)教会に行ってみようかな?
という気になったのです。
それまでの私の「教会」のイメージは、
「大きな十字架がある、立派な建物」
「牧師さんは厳格なおじいちゃんで支配的」
「日本にいる外国人がたくさん来ている」
「クリスチャンの人しか入れない」
「弱い人(神さまに頼るしかなくなった人)が行くところ」
「一度建物に入ったら、勧誘され説得され洗脳されるかも??」
「悪いことをしていたら『ざんげ』させられる?」
などなど・・・
しかし、これらの(本当に自分勝手な)想像は、なにひとつあてはまらない体験をすることになったのです・・・
~わたしがクリスチャンになるまで ③に続く~